夏目漱石と桑田佳祐にただ何となく近いものを感じている。

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今回のテーマは「夏目漱石と桑田佳祐にただ何となく近いものを感じている。」です。

突然ですが、

夏目漱石さんは、当て字の天才!
知らなかった、知らなかった、知らなかったよ!

□ 漱石さんの当て字

□ 漱石さんの小説冒頭

□ 月がきれいですね

□ 私の個人主義

□ まとめ

明治の文豪、夏目漱石さん。

新宿区立漱石山房記念館

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170921/k10011150991000.html

 

 

 

 

 

 

 

 

平成29年9月24日に開館されます。実に楽しみです。ボクも新宿区民ですから、一度は行かなくちゃ。

ところで、漱石さんを調べていたら、こんなことがありました。

夏目漱石 当て字

当て字をよく用いていた作家として有名な夏目漱石

 

□ 漱石さんの当て字

浪漫、非道い、沢山、肩が凝る、兎に角

こんなのが、漱石さんの本に出てくる当て字らしい。もう日常で使っている言葉も多い。

ただし、らしいというのには、「肩が凝る」などは、漱石さんより先の文献であったという記述がある。しかしながら、漱石さんの素敵なところは、言葉選びのセンスやあそび、リズムにあるように思う。

 

□ 漱石さんの小説冒頭

僕は、漱石さんの冒頭が秀逸だと思っている。

ここで並べてみる、めんどくさい人は飛ばしてね!

吾輩は猫である

吾輩わがはいは猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当けんとうがつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪どうあくな種族であったそうだ。

坊っちゃん

親譲おやゆずりの無鉄砲むてっぽうで小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほどこしかした事がある。なぜそんな無闇むやみをしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談じょうだんに、いくら威張いばっても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。とはやしたからである。小使こづかいに負ぶさって帰って来た時、おやじが大きなをして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かすやつがあるかとったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

 

草枕

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさがこうじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとさとった時、詩が生れて、が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

三四郎

うとうととして目がさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話を始めている。このじいさんはたしかに前の前の駅から乗ったいなか者である。発車まぎわに頓狂とんきょうな声を出して駆け込んで来て、いきなりはだをぬいだと思ったら背中におきゅうのあとがいっぱいあったので、三四郎さんしろうの記憶に残っている。じいさんが汗をふいて、肌を入れて、女の隣に腰をかけたまでよく注意して見ていたくらいである。
女とは京都からの相乗りである。乗った時から三四郎の目についた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移って、だんだん京大阪へ近づいて来るうちに、女の色が次第に白くなるのでいつのまにか故郷を遠のくような哀れを感じていた。それでこの女が車室にはいって来た時は、なんとなく異性の味方を得た心持ちがした。この女の色はじっさい九州色きゅうしゅういろであった。

 

こころ

わたくしはその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間をはばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆をっても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字かしらもじなどはとても使う気にならない。

 

明暗

 

医者はさぐりを入れたあとで、手術台の上から津田つだおろした。
「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。このまえさぐった時は、途中に瘢痕はんこん隆起りゅうきがあったので、ついそこがきどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日きょう疎通を好くするために、そいつをがりがりき落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」

今は、ほんとに良い時代です。ネットで青空文庫で全文読めて、ルビもあり、途中わからなければ、文字列を選んで、右クリックして、検索。

 

じっくり味わって読むことも大事ですが、どのようにこの物語が終焉するのかも、注目すると面白いです。最初はわかるけど、最後の方って・・・・ってことが多いから、

 

□ 月がきれいですね

これドラマなどで、よく使われるシーンで、学生が、「I LOVE YOU」を訳すのに、「私はあなたを愛しています」と言ったことに対して、そこは、「月がきれいですね」とでも言っておきなさいといったとか・・・・

これが本当なら、夏目漱石は「私はあなたを愛しています」などという不自然な文章は日本語じゃない、と感じたのだろう。

でも、夏目漱石は立派な英語教師だったはず。英語のテストで、「I LOVE YOU」を「月がきれいですね」とやったら、まずいんじゃないか・・・・

 

□ 私の個人主義

 

これも素晴らしいことに、全文読めます。

私の個人主義

これ今読んでも、面白いというか、タメになるというか、そう、味わえる、まるで漱石さんが目の前にいるような講演

大正三年十一月二十五日学習院輔仁会において述

私は今日初めてこの学習院というものの中に這入はいりました。もっとも以前から学習院は多分この見当だろうぐらいに考えていたには相違そういありませんが、はっきりとは存じませんでした。中へ這入ったのは無論今日が初めてでございます。

冒頭は、漱石さん、言い訳じみたことを話しているんですが

気に入ったところを勝手に抜粋しますと

英文科で教える立場でありながら

たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売うけうりをすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢どひでない以上はこれくらいの見識は国民の一員としてそなえていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
しかし私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいうところと私のかんがえ矛盾むじゅんしてはどうも普通ふつうの場合気が引ける事になる。そこでこうした矛盾がはたしてどこから出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、さかのぼっては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない。それを、普通の学者は単に文学と科学とを混同して、甲の国民に気に入るものはきっとおつの国民の賞讃を得るにきまっている、そうした必然性がふくまれていると誤認してかかる。そこが間違っていると云わなければならない。たといこの矛盾を融和ゆうわする事が不可能にしても、それを説明する事はできるはずだ。そうして単にその説明だけでも日本の文壇ぶんだんには一道の光明を投げあたえる事ができる。

日本人としての立場を重んじているのです。

自己本位

という言葉が出てきます。これについては、もっと読み解かなければならないのですが、この考え方が、漱石さんを漱石さんたらしめたといったも過言はないでしょう。

自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでははなはだ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出してみたら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯しょうがいの事業としようと考えたのです。

これは講演を聴いている学生に向けた言葉かもしれません。途中を端折るのは残念ですが、前後も含めて読んでいただきたいですが・・・

それはとにかく、私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定かんていしているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底からさけび出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ちこわされない自信が、その叫び声とともにむくむく首をもたげて来るのではありませんか。すでにその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧かもやのために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲ぎせいはらっても、ああここだという掘当ほりあてるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方のご家族のために申し上げる次第でもありません。あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰ふみつぶすまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。

この講演の最後は

個人主義、テーマであります。

これも全文でないと意味を曲解してしまう可能性があるのですが

 

それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。と云うものは、そうしたわがままな自由はけっして社会に存在し得ないからであります。よし存在してもすぐ他から排斥はいせきされつぶされるにきまっているからです。私はあなたがたが自由にあらん事を切望するものであります。同時にあなたがたが義務というものを納得せられん事を願ってやまないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言してはばからないつもりです。

(中略)

他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、立派な主義だろうと私は考えているのです。
もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党ほうとうを結び団隊を作って、権力や金力のために盲動もうどうしないという事なのです。それだからその裏面には人に知られないさびしさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。

(中略)

それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理窟りくつの立たない漫然まんぜんとしたものではないのです。いったい何々主義という事は私のあまり好まないところで、人間がそう一つ主義に片づけられるものではあるまいとは思いますが、説明のためですから、ここにはやむをえず、主義という文字の下にいろいろの事を申し上げます。ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないように云いふらしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙じゅうりんしなければ国家がほろびるような事を唱道するものも少なくはありません。けれどもそんな馬鹿気たはずはけっしてありようがないのです。事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのであります。

 

まとめ

僕は学者じゃないので、ゆるーく、ゆるーく、読んでいただきたいのだが、漱石さんの言葉選びのセンスは、現代でも十分いけるんじゃないかと思っている。言い回しなんかも面白い。

平成の世の中でも、きっと、漱石さんは大ヒット作を立て続けに出しているに違いない。

当て字の天才というと、現代では、僕は、桑田佳祐さんだと思う。彼の言葉選びのセンスは、普通じゃない、いつもはっとさせられることがある。

ここからは脱線してしまうのだが

僕が学生のときに、これは、と思ったのに、「ミス、ブランニューディ」という題名の曲がある。おそらく造語なんだけど、はやりばかり追いかけて、周りに合わせて生きる女性のことを歌ったもの。この時に、時代を読み取るセンスと言葉のはめ方、すごいと思った。

英語のフレーズに、日本語の漢字をつけて、歌詞を作るなどは、彼が初めてだったと思う。

”よどみ萎え、枯れて舞え”という曲に愛倫浮気性(アイリン・ブーケ・ショウ)という歌詞があるがこれなんて、歌詞カードを見て、初めて意味を知る。それも漠然と。

愛倫浮気性なんて言葉は、その当時の日本語にもない、今もない。
意味も分からないけど、雰囲気はわかる。

多分、数え上げれば沢山、彼の作った造語なのか、当て字なのかが出てくる。

僕は、夏目漱石と桑田佳祐に何となく、ただ何となく、近いものを感じている。

 

僕は、夏目漱石と桑田佳祐に何となく、ただ何となく、近いものを感じている。

 

これが最後に言いたかった。

最後まで、お読みくださりありがとうございました。

 

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