都立戸山公園にゴーカートが乗れる交通公園があった。

ご訪問ありがとうございます。

 

今回は都立戸山交通公園についてです。
とはいっても、いまはなく、うろ覚えの記憶しかありません。
なぜ、ここで自分なりにまとめてみようと思ったのか
というと・・・・・・先日、新宿区でスポーツ環境会議があり、
新宿区中学校PTA協議会の会長代理として出席しました。

その会議で、戸山公園の整備計画という議題がありました。
戸山公園は範囲が広く、早稲田に近いほうの場所です。

ただ、会議の中で、昔、大久保地区のほうの
スポーツセンターの近くで、
小学校のころ遊んだことを思い出しました。

ゴーカートがあったり、
ローラースケートをしたりした記憶が
よみがえりました。

あれは何だったのか?
いつなくなってしまったのか?

気になって調べてみたら
このことに関して、ブログで
まとめている人がいました。

この人は、交通公園について調べている人で
かつて交通公園だった戸山公園大久保地区

というテーマでブログを書いています。
すごく面白い視点!です。

東京23区を歩きまくって新発見を探す散歩散策バラエティーブログ(^^)/
http://bit.ly/2b3DnqX

昔の航空写真

1974-1978

真ん中の黄土色の部分が交通公園です。左側は山手線。上方向が高田馬場駅。

 

目黒区衾町公園

これは目黒区衾町公園です。戸山交通公園もこんなイメージでした。

足立区北鹿浜公園3

これは足立区の交通広場の案内ですが、こんな感じだったのかもしれません。
もちろん、いまは、戸山公園にはその面影はありません。

 

私は、当時土曜日は午前中授業がありましたから
お昼を食べて、おこづかいをもって遊びに行ってたようです。

この敷地内に建物があり、その屋上で
ローラースケートをやった記憶もあります。

ローラースケートといっても鉄製で、
運動靴をのせてサイズを調整する(^-^;

rora1こんな感じです!

都内には、まだ、交通公園はいくつかあるようです。
交通ルールを学ぶ場所としての目的ですが、
その背景には、交通戦争があったためです。

昭和30年代、高度経済成長をむかえた日本では、自動車の数が急増します。それにあわせ交通事故件数も増えはじめ、1946年(昭和21年)には年間4400人だった交通事故による死者数は年々増加し、1959年(昭和34年)にはついに1万人を突破。翌年も1万2000人を超え、この2年間での死者数が日清戦争(1894〜1895年)における日本の戦死者数を超える状況だったことから「交通戦争」といわれるようになりました。「交通戦争」が社会問題化し、流行語となった後も死者数は増え続け、1970年(昭和45年)には1万6000人を超えるという過去最悪の非常事態になってしまいました。

死者が増え続けた理由に、急速な「車社会」へのシフトチェンジに、当時の交通整備がまったく追いついてなかったことがあげられます。また、交通事故で、多くの子供も命を落としました。

今の子供たちにはわからないことの一つかもしれません。
このことで、登下校を守る学童擁護員や
下校時間を中心に交通規制を行う「スクールゾーン」も
1972年(昭和47年)から始まったそうです。

 

戦後にも戦争は存在したと揶揄する人もいますが、
揶揄でなくて本当にそうだと思います。

あまり意義や意味づけが感じられないと思っていた。
PTAでの交通安全週間での旗振りや声掛けも
地域や町会での取り組みも

交通事故で、多くの子供が命を落としていた
現実をなくすためから始まったことなんですね!

都立戸山交通公園は、都内で一番最初に作られた
交通公園だそうです。

話が脱線してしまいましたが
当時は、ただただ、
ゴーカートが乗れる公園(遊園地)
みたいにしか考えていませんでした。

でも、確かに、信号を守るようにとか、
ここは、いったん止まってとか、
係りのおじさんに言われたような・・・・

いつまで交通公園があって
なぜ、なくなってしまったのか

まだ、わからずじまいです。
あしからず・・・・・・・
※調べたいと思います(^-^;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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